予言
[ボパール 20日 ロイター] インド中部のある村に20日、自分が死ぬ日を予言した占星術師が、本当に予言通り死ぬか、自分の目で見るために数百人が集まった。
しかし75歳の男性の占星術師はその日を生き延びてしまった。
マドヤ・プラデシ州の首都ボパールの南に住んでいるクンジラル・マルヴィヤさんは、自分は20日午後3時から5時の間に死ぬだろうと予言した後、自宅で瞑想していた。
「生きててすいません」てな感じでこっぱずかしかろうが「生き延びてしまった」て。良かったじゃないですか。「こいつめーワッハッハ宴だ!」じゃすまないのか。
マルヴィルさんが自殺をしないよう家のそばに警官が配置された。
インドでは、多くの人々が、自分の結婚や商売など将来のことを占星術師に相談する。
マルヴィルさんのように自分の死を予言した占星術師は初めてではない。しかしこれまで、人々は予言がはずれた囲んで暴行している。
最後の文、意味がとりづらいが誤字は気にすまい。そう、最後の文だ。しかし予言が外れたからって自殺やら暴行やらって穏やかじゃないのだな。生を喜びたまえ。
ちなみに私は占いによると「8月9月はロクなことがない」らしいが大丈夫、10月も引き続き不運は続いている。占いは外れるのだ。ただ生を喜ぼう。ワッハッハ宴だ!
それにしてもマルヴィヤさんなのかマルヴィルさんなのか。別人か誤字か。どっちでも通じるのか。やはり気になる。
昔話
それが当人にとって大切であればあるほどきっと、プレスされカタくなり磨かれて角が取れ輝きを増す。
大切な昔話をぶにょぶにょしたまま、角があるまま濁ったまま語れる人間は凄いと思った。多分今日そんなおっさんに会った。
blindness
切ないニュース。ショッキングだった。このニュースの彼が「究極の」「マザコン」と表現されていることもなんだか切ない。その通りだとしても。
究極のマザコン(エキサイトニュース)
[ハイデラバード 3日 ロイター] インド南部の英語の教授が、母親を愛するあまり、その遺体とともに20年間も暮らした。そして彼が亡くなり、親子は同じ墓に埋葬された。
サイド・アブドル・ガフォアさん(60)の母親は1985年に亡くなったが、彼は埋葬を拒否したという。
20年間。彼は40歳の頃から60歳で死ぬまで母親の遺体と暮らしていた。家族やまわりの反応はどうだったのかと言うと、
ガフォアさんは遺体に化学的処理を施し、自宅でガラスのケースに安置した。それが原因で、妻が逃げだし、同氏が住むアンドラプラデシ州シッダヴァッタ村の人々は彼を村八分にした。
同地区の行政官は「彼は母親の遺体を完璧な状態で保存し、1日に亡くなるまで孤独に暮らしていました」とロイター語った。
どうなのだろう。逃げ出した妻の気持ちも村八分にしたまわりの人間の気持ちもなんとなく分かる。しかし彼はそういう反応のなかで母親への愛を貫き通した。孤独に、或いは母親と二人幸せに。死ぬまで。
ガフォアさんの行動は村八分な扱いを受けるほど責められるべきものなのかもしれないけど(しかし何故だ?誰かに迷惑をかけたのか?違法なのか?キモいから?「異常」だから?)、その思いはそっとしておいてあげたいようにも思える。
母親に対する愛と母親の遺体に対する愛は彼にとって同一だったのだろうか。彼は母親の遺体を、失いたくない母親の名残りあるモノとして見ていたのだろうか。それとも変わらずそれは彼の母親であり続けたのだろうか。正常であれ異常であれ、モノであれ人間であれ彼ほど何かを、誰かを愛し執着したことがあったろうか。
追記
そういや先月こんなニュースもあった。
年金を貰うために母親の死体と5年間暮らしていた男(エキサイトニュース)
[マルセイユ・フランス 17日 ロイター] 60代のフランス人男性が、毎月700ユーロの年金を受け取るため、母親の死体と5年間暮らしていたことが明らかとなった。
この男性の職業は、病院の死体安置所の職員。男は母親の死亡を隠匿した罪、そして詐欺罪に問われることになっている。当局はこの親子が住んでいたアパートの捜索を行い、部屋に積み上げられたゴミの中で母親の遺体を発見した。
>ゴミの中で母親の遺体を発見した
こりゃひでえ、近所に住んでたら村八分にしてやる
罵り合う街を見てた
仕事を終え熱っぽくフラフラな状態で新宿に。友人と会った。眺めるゆとりのあるときに見る高層ビル街はやっぱいい。なんか燃える。今日は空気がきれいだったのかビルがくっきりと暗闇から浮かび上がっていた。
カメラに興味があった頃はたまにビルを撮りに訪れたもんだ。ロクな作品が撮れずカメラ自体にすぐ飽きてしまったけれど。もう随分昔になる。そびえ立つビルを眺めながらそんなことを思い出した。
ものを思い出すきっかけって本当不思議だと思う。すっかり忘れていたことや思い出されることのない昔の趣味などがふと、急に蘇る。それ以外のこと、私は何を思い出せていないのだろう。同じきっかけでも思い出さないときの方が多いのだろう。何かと何かがカチっとはまった時、脳のどっかが勝手に震えるのだろう。
高校生の頃はぼんやりひとの顔を眺めるのが好きだった。それを思い出し一人新宿に残り行き交うひとを眺めてみる。アルタ前。昔の私はどんな思いで眺めていたのだろう。きっと「逆ナンされねーかなあ」とかそんなんだとは思うけど今の私は昔の自分を思いながら行き交うひとを眺める。
私の眼前をどんどん通り過ぎていくみなさん。それをぼんやり見ながら栄養ドリンクをゴクリ。「溺死!溺死!・・・dick、、shit!」とカトちゃんクシャミをしながら帰宅。